海外支援従事者のひとり言

アジア、アフリカ、中東と緊急人道支援で渡り歩き、合間合間で旅に出る、半ノマド生活を送るパルワナが、海外支援で思うこと、旅の話、世界のこと、日本のことについて独り言ちます。

終戦記念日に思う、あの戦争に巻き込まれた異国のあれこれ

日本で過ごす、すごく久しぶりの8月15日。

とは言っても、一日外出していて

今日がそんな日だって、夜まで頭の中から抜け落ちていた。

 

帰路の電車の中、スマホのYahoo トップニュースの

「首相式辞から「歴史」消える」という朝日新聞記事のへッドラインが目に入った。

そっか、今日終戦記念日なんだな、しみじみ。

 

思い出してみると、訪れた色々な国で戦争の痕跡を見聞きしている。

 

サイパン

ダイビングのライセンスを取ったサイパンでは

バンザイ・クリフと呼ばれる絶壁があった。

米兵に追い詰められた1万人もの日本兵や民間人が

天皇陛下、万歳」「大日本帝国、バンザイ」と言って崖から飛び降り、

海は真っ赤な血の色に染まったらしい。

バンザイ・クリフから見た空が青すぎて、悲しかった。

 

パプアニューギニア

障害のある人もない人も一緒に楽しむバリアフリー・ツアーでは、パプアニューギニアに極楽鳥を見に行った。

訪問地の一つラバウルでは、いまだに日本軍の戦車や大砲などが道端に朽ちていて、

いまだに放置されているのに驚いた。

現地の人々はどのような思いで残骸を目にしているのだろう。

 

韓国

韓国人の友達スーアに会いに韓国を訪れた時、

「珠子いう日本名があったの。」

とスーアのお母さんから聞いて、居心地が悪かった。

 

シンガポール

アメリカ留学中に知り合ったシンガポールからの留学生ブンはシンガポール軍に属していた。

「太平洋戦争で日本に占領された辛い経験から、シンガポールは強い軍隊を持たなければならないと学んだんだ。」

と日本人の私に、何度も繰り返し強調していた。

 

中国

そうそう、 チベットを訪れた時は、 

高速鉄道でラサから北京に帰る道中、

コンパートメントの中の中国人青年と筆談を始め、

最初は楽しく会話できていたのに、

日本は戦争で悪いことをした、なんて彼が書き始めて

困ったなぁ、これは。。。と思ったけど、

彼が話をヒートアップしなかったので助かった。

 

ミャンマー

駐在したミャンマーでは、

建物が日本軍の指令室として使われたホテルに泊ったことがある。

ちょっと怖い気がした。

庭には日本の遺族の会が植林した木が何本も植わっていた。

遺族の心情を思うと、神妙な気持ちになった。

 

ホテルに出没する日本兵のこわーい幽霊話を聞いた。

また、終戦後もミャンマーに残ってミャンマー人と結婚し、名前もミャンマー名にして現地人化している元日本兵がいるとも聞いた。

現地職員にお願いすれば、会いに行くことも可能だったけれど、

すっかりミャンマー人化していて、日本語ももう話せなくなっていると聞いて、

会いに行くのはやめた。

今更、日本人の若者が興味本位で会いに行っても、迷惑なだけだろう。

 

泰緬鉄道起点跡も見に行ったなぁ。

泰緬鉄道建設で強制労働を強いられた連合軍兵士のタンピュザヤの墓地も訪れた。

こんなにも多くのイギリス人が捕虜となって

泰緬鉄道建設に駆り出されていたなんて知らなかった。

 

一緒に行った友達とは、

タイ側の泰緬鉄道起点カンチャナブリにも行こうと計画している。

 

スリランカ

他の駐在地スリランカでは、

スリランカにも日本の零戦が飛んできていたと同僚から聞いた。

日本軍がスリランカにまで来ていたこと、知らなかった。

1942年、イギリスとのセイロン沖海戦があったらしい。

 

ああ、外国で日本が直接かかわった太平洋戦争を見聞きすると

あの戦争が過去の、よその国の遠い話ではなくなる。

その国の視点で見る太平洋戦争と日本軍。

 

終戦を迎えて戦闘は終わっても、その影響は何十年経っても消えていない。

だから太平洋戦争が終わって数十年経ってから生まれた私も、

外国でこんなに太平洋戦争の痕跡を見聞きする。

戦争ってそういうものなんだ。

その影響力の大きさに恐れおののく。

 

緊急人道支援の現場でも、

何年たっても戦争に巻き込まれた本当に多くの人たちが

心に大きな傷を癒し切れていない。

心のケアを必要としている。

だから緊急支援では心のケアも大きな支援分野の一つとなっている。

 

そんな人々に大きな影響を与える戦争、

絶対に反対!